FC2ブログ

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コージー・パウエル!コージー・パウエル!

2010年03月16日 21:14

 こんつは、ハンキー・ドリー・ハンクです。


あー、サイトを立ち上げたときのコンテンツの一つにしよーと思うんで、思い入れのあるミュージシャンを採り上げてみよーと思います。


一発目はコージー・パウエルです。





<以下、普段の「イタイ」とか「気取ってんじゃねーよ」という文体から豹変>





コージー・パウエル(Cozy Powell)


本名:Colin Flooks


ハードロック、ヘヴィ・メタルを代表するドラマー。





【キャリア】


 1968年から本格的に活動を開始したとされるが、実質ポップ・ミュージック界で知られるようになったのは、1970年にジェフ・ベックの目にとまり、彼のバンドで二枚のアルバムに参加してから。





 ジェフ・ベック・グループ脱退後、ソロ名義でシングル『Dance With The Devil』(B面は「Na Na Na」。)を発表するもヒットせず。


1973年にバンド、ベドラムを結成。スタジオ・アルバム一枚とライブ・アルバム一枚を発表した。


1974年に『Dance With The Devil』が突然のヒット。これに乗じ、コージー・パウエルズ・ハマーを結成。





 1975年。デビュー作は中庸なブリティッシュ・ハードロックであった、元ディープ・パープルのリッチー・ブラックモア率いるレインボーのオーディションに合格。


翌年に発表された『ライジング』では、巧者でありながらギターの音像が薄かったリッチー・ブラックモアのマイナス点を補うかのようなドラミングを聴かせている。


また、当時のヴォーカルであったロニー・ジェイムス・ディオのパワフルで個性的な歌唱法を独り歩きさせていないという印象も受ける。


本作発表当時はハードロック不毛の時期であり、あまり重要視されなかったようであるが、現在では不朽の名作の一枚として挙げられることが多い。





 1979年。アルバム『ダウン・トゥ・アース』を発表後、翌年レインボーを脱退。


脱退の理由は「俺が目指す音とは違う方向に進み始めたから」というもの。


確かに、それまでのレインボーでは考えられなかったようなポップな曲も収録されている。


しかし、重厚な曲も多く、彼のその後のキャリアを顧みるとリッチー・ブラックモアという個性的なリーダーとの間に蓄積されたフラストレーションが最たる理由ではないかと筆者は考えている。


1980年に行われたフェスティバル、ドニントン・モンスターズ・オブ・ロックが最後のステージであったようで、ドラム・ソロ終了後、バンド内で親友でもあったヴォーカル、グラハム・ボネットが「コージー・パウエル!コージー・パウエル!」と連呼している。





 彼にとって初めてのソロ・アルバム『オーヴァー・ザ・トップ』は1979年に発表された。


1981年には『サンダー・ストーム』、1983年には『オクトパス』、1992年には『ドラムス・アー・バック』を発表。


重厚な音が印象深い彼であるが、『オクトパス』までの音像はハードロック寄りのフュージョンといったものである。





 ソロ・アルバムを発表しながら1981年にはマイケル・シェンカー・グループに加入。スタジオ・アルバム『神話』とライブ・アルバム『ライブ・アット・武道館』に参加している。


なお、『ライブ・アット・武道館』発表当時はカットされていた彼のドラム・ソロは現在CD化されているものに収録されている。





 彼が参加した作品は予想以上に多く、1970年代にはドノヴァン、1980年代初期にはロバート・プラントの作品にも参加している。


マイケル・シェンカー・グループ脱退後はホワイトスネイクに加入。


1983年に二度目となるドニントン・モンスターズ・オブ・ロックに出演している。翌1984年、米国進出を目標とした『スライド・イット・イン』を発表後、ホワイトスネイクを脱退。





 1986年、エマーソン・レイク・アンド・パウエルを結成。


当初の予定では、エマーソン・レイク・アンド・パーマー(EL&P)の再結成であったが、カール・パーマーが参加できないことから急遽コージー・パウエルが加入することになった。


カール・パーマー不参加は諸説は様々である。


「当時在籍していたエイジアがヒットしていたから」というものや「レーベルとの契約上の問題」というものなどである。


筆者は後者が有力であると思っている。


何故なら、エイジアはデビュー作はヒットしたものの、その後はチャートを急落する一途であったのだから。


カール・パーマーが「EL&Pという表記は使わないで欲しい」という要求に対しEL&Powellと表記しアルバムを発表したことは嘘ではないと思われる。





 スタジオ・アルバム制作中の度重なる事故(スタジオ損壊に伴い機材も破損等。)、また、ツアーにおいて露見したマネージメントの惰弱さ、キース・エマーソンとグレッグ・レイクの軋轢に辟易し、コージー・パウエルは再び加入したバンドを脱退、フリーの身となる。


確固たる信念、スタイルを貫く傾向にある彼にとって、人間関係の諍いはかなり不快であったようで、当初、全面参加する予定であったゲイリー・ムーアの『ワイルド・フロンティア』も「ゲイリーは自分の思い通りに叩かないと気にくわない性格で、融通が利かない」といった理由で脱退している。(結局、ゲイリー・ムーアはコージー・パウエルの音をサンプリングしドラム・マシンでドラム・パートをレコーディングした。)





 1988年。当初は元シン・リジィのジョン・サイクスが結成したバンド、ブルー・マーダーに名を連ねていたがレコーディング前に脱退。カーマイン・アピスが代役を務めた。


ブルーマーダー脱退の理由は筆者は知らないが、脱退した足でブラック・サバスに加入した。


『ヘッドレス・クロス』、『ティール』に参加、ツアーも行った。





 1991年にブラック・サバスは『ヘヴン・アンド・ヘル』、『悪魔の掟』に参加していた元レインボーのロニー・ジェイムス・ディオを加入させ、『ディヒューマナイザー』制作にとりかかる。


しかし、「乗馬中に落馬して骨盤を骨折した」という理由で参加せず。


なお、この理由はブラフであり、彼がロニー・ジェイムス・ディオと仕事をすることに消極的だったとの説もある。


1995年にはアルバム『フォービドゥン』にてブラック・サバスに復帰している。





 1993年。フレディ・マーキュリーの死後、沈黙していたブライアン・メイのアルバム『華麗なる復活』とそれに伴うツアーに参加した。


この『華麗なる復活』のタイトル・トラックは、コージー・パウエル名義の『ドラムス・アー・バック』収録であるインストゥルメンタル「Ride The Win」をアレンジし、歌メロを付けたもの。





 しばらく主立った作品に参加していなかったが、1997年に当時まだ日本では人気があったイングヴェイ・マルムスティーンのアルバム『フェイシング・ジ・アニマル』に参加。


ツアーではレインボー時代の名曲も聴かれるのではないかと思われたが参加せず。


ツアーが行われる予定であった1998年、アルコールで酩酊状態にありながら、シートベルトもせず恋人に携帯電話で通話をしながら車を高速で走らせながらスリップ。中央分離帯に激突、即死した。


下記に述べるが、この事実は彼を愛してやまないファンや近しいミュージシャンは衝撃を受けた。








【プレイ・スタイル】


 コージー・パウエルのドラミングは独特である。


一般的には溜め気味に力強く抜けるプレイを信条としているようであるが、レインボー加入前まではメソッドに沿った器用なドラミングも可能であったことがうかがい知れる。


総じてハードロックやヘヴィ・メタルにおけるツーバス・ドラムのドラマーは、疾走感を醸し出すためにミュートした状態にて高速で連打するが、彼は26インチという巨大なバス・ドラムをミュートせず連打できる下肢の力強さを持っていた。


そのため、通常であれば「スカタンスカタン!」と聞こえるものも、彼の場合は「ダンドココダンドココ」といった重たい音である。





 ドラムが叩けない筆者の感想で申し訳ないが、溜めが利いていたり、重たい音であっても、曲によって、溜めと加速を巧く使い分けていると思う。


1980年代後半以降は空間系のエフェクターで重苦しい音像になったが、ライブで聴かれるそれは各ドラムを打ち抜くスピードが独自でありながら強さ自体が変わらない点に着目している。








【パフォーマンス】


 一概にしてドラマーのソロは退屈である。


元々、ドラム・ソロなるものは、ジャズやフュージョンといった誰が見聞きしても「素晴らしい!」というものから始まったと思われるが、ロック・ドラマーのそれはドラムを叩けないリスナーにとっては退屈極まりないものである。





 コージー・パウエルは、ドラマーとして小手先のテクニックを捨てる代わりに仰々しいクラシック音楽をバックに流し、その曲調に合わせドラムを叩くという手法を編み出した。


また、実際、想像以上の力が必要と思われるので当然かも知れないが、所謂「キメの見せ所」では歌舞伎役者のようなオーバーアクションをしてみせた。


因みに彼が使用した曲はチャイコフスキーの「大序曲1812」、映画『633爆撃隊』のテーマ曲、ホルストの「火星~戦いをもたらす者~」等がある。


1983年のホワイトスネイク在籍中に行われたモンスターズ・オブ・ロックでは、照明を飛行するヘリコプターで代用し、ドラム・ソロを披露したという。(VHS版ではカット。DVD化される際に完全版を期待したい。)





【エピソード】


★小手先を巧く使ったドラミングも可能ながら、パワフルなドラミングを維持するためにボクサーのトレーニングを行っていた。


★彼の幼少期時代は明らかになっていないが、他界直後のキース・エマーソンのインタビューによると「孤児院に預けられていた身よりのない少年時代だった」とのこと。


★レインボー時代、『バビロンの城門』レコーディング中にリッチー・ブラックモアが「コージーは俺の豆缶詰まで食いやがったんだ!卑しい奴だ!」と憤慨した。


★レインボーがヨーロッパをツアーする際、飛行機で移動することになったが、陸路で移動できることから自身の愛車でスタッフらを乗せ、リッチー・ブラックモアらが搭乗した飛行機が到着するよりも速く空港に到着して出迎えたことがある。それほど車やバイクの運転が上手かった。そのため、死因を知った友人やファンは衝撃を受けた。


★自身のスタイルが唯一無二と自覚していたためか、ギャラが高額だったらしい。


マイケル・シェンカーが1990年代に、武道館を満員にしたメンバーで来日するとアナウンスしたが中止になった。理由は「マイケルが入信したカルト宗教が原因」と言われていたが、実はコージー・パウエルのギャラが高額で採算が合わなかったという理由が真相らしい。イングヴェイ・マルムスティーンのツアーも、他界したことよりもギャラが高額で当初から参加する予定ではなかったともいわれている。
関連記事


コメント

  1. コージーコーナー | URL | 79D/WHSg

    1 ■re

    コージーはプロのカーレーサーと
    オートレーサーでもありました。

    それから、コージーの音が重く聞こえるのは、
    ウッドビーターの先駆者で、打面はテープ補強していました。
    又、踵を強く固めたブーツを履いて、足首で減衰しないように踏み込んでいました。
    更に、タメの効いたスネアはわざと弛ませて座蒲団のような打面にして、サスティーンを抑え、アタック時の破裂音を強調することで、そう聞こえたと思います。

    ヘビードラマーがヤマハのドラムセットを採用したのも当時は珍しかったのを覚えています。

  2. ハンク | URL | 79D/WHSg

    2 ■Re:re

    >コージーコーナーさん
    はじめまして!
    貴重な情報ありがとうございます。
    レーサーであったことはファンの多くが知るところだと思いますが、ブーツ等の説明で「重いのにあんなに立ち上がりが速いんだ!」と勉強になりました。
    でも、僕もドラム叩きたかったなぁ。(中学の頃、リズム感無しと宣言され諦めました。)

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://soulkitchen03.blog130.fc2.com/tb.php/284-e2dccab7
この記事へのトラックバック



QLOOKアクセス解析
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。